社会保障の在り方を見たときに、障害を持つ者について医療と年金の社会保障はもちろん社会福祉も手当てされる。現在の社会保障や社会福祉ではその費用がどんぶり勘定的要素が大きいため「社会保障と税の一体改革」は割高感しかないのである。

 

ダウン症を一例に取り上げて申し訳ないが、身近な例としては判りやすいので敢えて取り上げる。

 

ダウン症の子供が産まれる確率は、高齢出産になるほど高くなる。21番染色体異常が原因らしいが、20 - 24歳の出産では1/15620.06%)なのに対し、35 - 39歳でおよそ1/2140.47%)、45歳以上の場合はおよそ1/195.3%)と高率となるという米国の統計がある。

 

欧米社会の生活習慣の広まった日本においてもその確率に若干の差はあるだろうが同様の傾向を示していることに違いない。日本の社会保障問題では合計特殊出生率の上下が基軸となって議論がされているようだが、その出生率にはダウン症も含まれている。

 

民間生命保険ではリスクの低いものの集団によって保険が成り立つ。リスクの高いものは基本的に集団から除外される。民間の生命保険ではリスクを排除して保険運営を維持している。

 

しかし、国の運営する医療保険や年金などの社会保障や障害者に関する福祉などはそのような偏りがあってはならない。むしろ、社会的なリスクとしての事象に給付を行っている。しかし、保険料はリスクによって変更されることがないのがこれまでの制度である。そこに大きな誤りがあると怪しむ。

 

もし、ダウン症の事例で、年代別出生リスクに着目すれば、更に子供を産んだ女性、結婚している女性、未婚の女性でリスクが異なるに違いない。リスク比例としての保険料を定額保険料(定率保険料)のほかに加算しても良いのではないかと考えることもできる。リスク比例の保険料で保険医療、障害年金、障害福祉の一部分の財源を補完することになる。別にダウン症に限ったことではない。他の疾病も同じである。医療保険と障害年金、障害福祉がリンクするものはそういった考えを導入してはどうか。

 

医療保険の財政が何故不足するかという点について考えれば、体がいつもと違うから病気になったのではないかと医者に診てもらう。痛い、痒いといえば、医者に見てもらう。そこで、財源が足りないから後期高齢者医療などというのが登場した。逆に、保険料を納めているのだから当然の権利とばかり医者通いである。病院診療所のサロン化は議論されて久しいが、解決には及んでいない。

 

健康に気遣う人とそうでない人の保険料が同一であるところに制度の矛盾がある。「自助、公助、共助」というのは屁理屈であって、自助が抜け落ちてはいまいか。自助とは努力である。公助とは税金である。共助は公助のなかにあるのではないか。

 

この際、全国民に対し現在は保険外診療となっている健康診断を保険診療としてし、健康診断を義務付け、リスクを見極めたうえでリスク応分の保険料体系に改めてはどうか。つまり、健康診断等で悪性新生物を除く慢性疾患、例えば生活習慣病と呼ばれる糖尿病、痛風、脂質異常などの人の保険料を高くしてはどうかというものである。ちなみに医療費の3分の1は慢性疾患(悪性新生物も含む)である。悪性新生物は除いた医療費の圧縮は数兆円規模となるはずだ。健康診断の経費が掛かるかもしれないが、予防医学の観点からもメリットは大きい。実施すれば経費の圧縮は可能だ。そして、生活習慣病などで診療を受けた人の翌年の保険料はわずかでも上げる。自助の考えを徹底して取り入れれば、医療費は圧縮できるに違いない。

 

自助のないところに公助など必要ない。自助の思想の欠落した社会保障や社会福祉など意味のない制度である。自助のないところに公助を行うのはバラマキである。言葉巧みにばら撒くのは偽善者である。

 

 

「社会保障と税の一体改革」を廃案にし、解散せよ!

 

 

 

【おまけ】

 

国土防衛も全く同じである。自助のないところに国土防衛など成り立たない。

偽善者は国土を守れない。偽善者は国民を守れない。

 

「社会保障と税の一体改革」を廃案にし、解散せよ!