チンピラ親父が高校生のころ、文化祭のため鉄道模型同好会に助っ人を頼まれ、蒸気機関車のイラストを6,7枚描いたことがある。貨物のターミナルの近くに住んでいたことがあるので蒸気機関車は飽きるくらいみていたのだが簡単には書けない。そこで、写真を見ながらどうにか描いて展示した。会場では仲間達が自作の鉄道模型を走らせた。そして、会場に大型スピカーとアンプなどの音響機材を持ち込みD51が走っている音を流した。大音響とともに会場となっている教室の中をあたりの窓をきしませながら右から左にD51の音が通過していった。昔のステレオ装置はなかなか優秀であった。しかし、本物の音にはかなわない。

 

最近家の前でつくつくほうしの生の鳴き声を聞いると生きている幸せを感じる。パソコンから出てくる音はなんと味気ないのだ。録音技術が進歩したというが本物の音にはまだまだ及ばない。現代人が発達した機器の音を聞いて満足しているとすればいずれ聴力が退化するのではないのかと怪しむ。恐らく、科学技術などによる満足は退化の始まりに違いない。

 

科学技術の進歩は新しい物を受け入れ古いものを捨てる傾向がある。それはものだけに限らず文化全般に及ぶことがある。今までの文化を捨て新しい文化を導入した国の国民は退化している。一例をあげれば文字文化の変更がある。中国は漢字を簡体字にした。韓国、北朝鮮はハングルにした。古い文字を捨てたがために首から上が退化したに違いない。

 

これを数式で表すと古いものには歴史があり重みがあるから数字を2とする。新しいものを1とするならば、古きものを守り新しい技術を取り入れた国は 2+1=3 となる。ところが、古い文化を捨て去り新しい文化を取り入れた場合は 0+1=1 で、本来3になるものが1になったのだから退化したことになる。開発途上国でまだ新しいものが入っていなくとも、自国の文化を持っているから 2+0=2 となる。古い文化を捨て去った国は開発途上国より劣ることが簡単に分かる。首から上の退化が恐らく民度の退化となって見えるに違いない。そうすると、中国、韓国、北朝鮮の行動が納得できる。

 

中国、韓国、北朝鮮には「退化の改新」が必要に違いない。

 


 

そうは言ってみたものの最近の日本人もどことなく新しいものに跳び付いて古いものを捨ててはいまいか。民度の低い中国、韓国、北朝鮮と馬鹿にできたものではない。携帯電話を持ってから日本人は馬鹿になったと云われている。今では地下鉄に乗れば、スマホと睨めっこしている大人が何人もいる。チンピラ親父は赤鉛筆を耳に挟んで競馬新聞を読んでいるように見えてならない。

 

しかし、日本はまだ武道や芸術など古い文化を捨て去っているわけではない。檀家でなくともお盆には墓参りをする風習も残っている。困っている人がいたなら助けるといった基本的な道徳も残っている。戦後教育で米国の文化が流入しても 2+1=3 の数式は成り立っていた。

 

日本という国には発展するための素地があることを忘れてはならない。ともすれば新しいことに目が向かうが、古いものに基本があることを知るべきである。古い文化を守りつつ新しい文化を融合させれば 2+2=4 というすばらしい国になるに違いない。