洗礼(プロテスタントではバプテスマというらしい)・浸礼・滴礼 等いろいろ儀式はあるようだが、洗礼は川に入り全身を浸す。今では、風呂桶に入ったり、頭から水を掛けたりと略式化されている。

 

昔、風呂などが完備されていない住環境では川に入ることにより汚れを落とすのが普通だったろうから、世の雑念や穢れと縁を切るという意味でのセレモニーとしては一つの方法に違いない。

 

しかし、もっと深く考えれば、入水し死の瀬戸際まで行ったとき人は自分のこれまでの行いを思い起こすのではないのか。その中で、真の反省があり、もう一度人生を歩みたいと思った時に生き返るのではないのか。

 

宗教と水と云えば真言宗や天台宗の密教修行者や修験道の山伏などの滝行を思い起こす。全身に刺激を与え体温と水温、気温の差により体内において変化が起きるのかもしれない。急激なストレスは体を守るためにアドレナリンを分泌することは知られている。

 

必死になってことを起こすとはアドレナリンの分泌が必要なのであろう。しかし、アドレナリンは毒でもある。全身が疲労する。これを中和しうる物質を体内で分泌する。そして、βエンドルフィンといった快楽物質の分泌などを自由自在に自身でコントロールできるなら理想に違いない。そうなれば宗教は不要になるかもしれない。

 


 

不要なアドレナリン分泌を抑えるために宗教の律法が定められているのではないかと怪しんでいる。

 

宗教というのは不要なアドレナリンを人々に分泌させないようにすることが目的ではないのか。

 

宗教の有無を除いた国家における政治は複雑になるのは当然という結論に至る。

 

政治家はキリスト・イエスより偉くなければ務まらないだろう。

 

人がアドレナリンや中和コントロールができるなら最強の人が出来上がるかもしれない。政治家のいらない世界、宗教のいらない世界が出来ればすばらしいかもしれない。

 

パリサイ人はキリスト・イエスに批判的であった。しかし、パリサイ人がいなくなりキリスト教は反ユダヤ主義となった。それはアシュケナジーユダヤ人を集めイスラエル国家をつくる温床となったのではないかと怪しんでいる。

 

(偽善な律法学者・パリサイ人の仲間 チンピラ親父)