キリスト・イエスがいつ生まれたかはどうでもいい内容ではないのかと思っている。
新約聖書の冒頭のマタイによる福音書第3章13節~15節ではこんな記述がある。
『そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずなのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。』
イエスはヨハネにバプテスマ(洗礼)をしてくれと頼んでいる。洗礼は罪穢れを洗い流すという意味合いがある。カトリックであろうが、プロテスタントであろうが、古くは古代ローマのミトラ教(太陽神ミトラスを神とする宗教などでも行われていたようだ。
つまり、バプテスマのヨハネによるイエスのバプテスマ(洗礼)を受けるまでイエスは「罪穢れ」があったということになる。イエスが結婚していたとか、未婚の女性がいたとかはそんなところから話が出ているかもしれない。
キリストが誕生した日がいつであろうが、まだバプテスマを受けるまでは普通の人であり、バプテスマを受けたことにより、「罪穢れ」なき者として、人を説教するに至るのではないかと考える。しからば、イエスの誕生日など余り価値はない。むしろ、バプテスマを受けたことにより、『また、天からの声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。』(マタイによる福音書第3章17節)
創造主の声なのだろうが、そこで初めて「わたしの心にかなうもの」であることを宣言され襲名披露したわけである。キリスト教の始まりはこのバプテスマ以降が問題となるから、この起点であるパプテスマがいつ行われたかが問題ではないのか。
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