とうとう平成25年も12月31日となってしまった。一年を振り替える最後の日である。

 

まず感謝すべきは、今もなお尖閣諸島問題で領海警備をされている海上保安庁の職員の皆さんと日本の領空領海領土を守り、他国への支援もされている自衛隊の皆さんだろう。

 

今年一年間ありがとう。

 

近隣国の妬みで平和な日本が乱されようとするなか平和が維持されたのは目に見えぬところで働かれている方々のお蔭であることは間違いない。

 

前回エントリーで塩釜の中卸市場で本マグロをゲットした話しに触れたが、マグロを捌いていた女性は被災した塩釜港の女性の仲買人だった。一生懸命生きている人間は一種独特のオーラを発している。そういったオーラをおすそおすそ分けしていただき、自らのオーラをパワーアップする。そして自らのオーラもだれかに分けられていくものだと信じている。

 

東日本大震災からもうすぐ3年になろうとしている。復興の形は目に見えないが多くの人々がオーラを分かち合いながら生きてきたのは事実だろう。

 

人生はお金がすべてのように人はいつしか学び行動しているが恐らく誤りであるに違いない。人生はオーラパワーの授受関係でしかないに違いない。

 

「授受」とは授けることと受けることである。オーラパワーの許容量には個体差があるはずだ。だから、受け取り放なしではパンクしてしまう。自分の持っているオーラを他人に分け与えてこそ、再びオーラを受け入れることができる。

 

例えば許容量が100の人間が30のオーラを出せば、30のオーラが入る。その人が再び60のオーラを出せば60のオーラが入る。オーラの許容量は変わりないのに60のオーラが入ってくれば幸せに感じるに違いない。オーラの授受が頻繁になれば、もともと持っていた許容量の範囲も柔軟になり、最初100だった許容量は120になり、逆にオーラの出し入れが少ない人は許容量が少なくなっていくのかもしれない。

 

オーラの許容量には個体差がある。しかし、オーラの授受の頻度によって大きくも小さくもなるものなのだろう。宗教をはじめ先人が残してくれた知恵はそんなことを語っているのではないかと怪しんでいる。

 

「神は我と共にあります」・・・神とはオーラのことではなかったのか。

 

「言葉は神である」・・・オーラを制御するのは「言葉」ではないのか。

 

新年はオーラパワーをいただけるよう自己のオーラをまずは放出せねばなるまい。

 


 

イザブログも最後となりました。イザブログの先輩諸兄、関係者の皆様のオーラパワーをたくさん戴き感謝してイザブログの幕を降ろさせていただきます。

 

ありがとうございました。